織田信長は戦国時代から安土桃山時代の戦国大名。父は織田信秀、母は正室の土田御前。青年期までは奇行が多く、周りからは尾張の大うつけと称された。
父信秀の死後、弟の信勝と家督争いを経て、尾張国内の支配権を確立した信長は、桶狭間の戦いで、はるかに勢力が上回る今川義元軍を撃破、さらに浅井長政との同盟や、調略等により斎藤家を滅ぼすなど天下統一の足がかりとなる美濃を手中に収める。
さらに信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉じ室町幕府を再興、六角家を滅亡させ、三好善継や松永秀久らを臣従させるなどして実質、織田政権が確立される。その後義昭の権力を制限するため、殿中御掟を認めさせるが、そのころから信長と義昭の対立が激化することとなる。
義昭は信長包囲網を結成すべく、浅井、朝倉、武田、毛利、三好やさらに比叡山延暦寺や石山本願寺などの寺社勢力にまで呼びかけを行った。これに困った信長は正親町天皇に勅命を仰ぎ浅井・朝倉と和睦、武田信玄の死去により窮地を脱することとなる。
体勢を立て直した信長は、朝倉・浅井連合軍や義昭と共に反乱した三好善継や松永久秀らを次々と破り、信長包囲網は決壊する。その後、長篠の戦いや、越前侵攻で蓄えた勢力により各方面への侵攻を開始、ついには武田家をも滅亡に追い込んだ。
絶頂期を迎えた織田信長の天下統一は目と鼻の先であったが、それに立ちはだかったのが、明智光秀であった。本能寺の変である。多勢に無勢の中、自ら槍をもち、戦ったと言われているが、勝つ見込みはなく、ついに自害。享年49歳であった。明智秀満により死体が探されたが、ついに見つからなかったと言われている。
※武将説明に関しては諸説あります。御了承下さい。